十六の話より。
もともとは1989年の小学6年生用の国語の教科書に掲載されたもの。私より一学年上の児童に向けられたものなのだろう。そのため、初めて読んでから今まで何度も読み返している。
短い作品だ。文庫本で僅か9ページ。だがその短い文章の中で司馬遼太郎の人柄がここまで垣間見える作品も珍しいのではないか。彼の優しさ、歴史への愛情がこの作品から溢れ出る様である。
冒頭、司馬は歴史が好きだと述べる。それも自分の親を愛するようにと。彼にとって歴史とはかつて存在した何億という人生が詰め込まれている大きな世界である。
その大きな世界を司馬はその数多くの著作を通して旅してきた。司馬の洞察力、情熱、想像力等があってのことだろうが、著者自身がそこにいたのではないかと読者に(少なくとも私に)思わせる程、彼の作品の描写は素晴らしいと思う。彼の作品の多くが創作であることを考慮してもだ。有名どころでは坂本龍馬や河井継之助等、また、カンドウ神父、フランシスコ・ザビエル、イグナチオ・デ・ロヨラ等「街道をゆく」で取り上げられる人物もまるで司馬が実際に交流したのではないかと思われる程仔細に描写されている。
それら歴史上の人物が司馬を励ましたり慰めてくれるため、彼は二千年以上の時を生きている様なものだと思っていると述べる。それは楽しいことだとも述べている。
その通りだと思う。今、私はそのことを本当に羨ましいと思う。しかし、司馬は言う。私達にあって、彼にないものが彼に寂しさを感じさせると。
未来、具体的には1989年の時点で司馬が思い描いていたであろう未来、二十一世紀である。司馬は自身に二十一世紀の予測等とても出来ないという。
他方、歴史から学んだ人間の生き方の基本的なことを述べることが出来ると言う。自然によっていかされているということと人間は決しておろかではないということである。
我々に対して司馬は言う。我々は自分に厳しく、相手には優しいという自己を確立しなければならないと。それによって今後も発達するであろう科学・技術を良い方向に導いて欲しいと。また、本能ではない、優しさやいたわりを訓練して身に付け、自己の中で根付いていくことが出来ればと。
鎌倉時代の武士たちが大切にしてきた「たのもしさ」について司馬は述べる。どのように人はたのもしくなるのかも述べている。司馬自身が何よりたのもしさを重要視してきたのではないだろうか。その歴史小説にはたのもしい人物が溢れている。そして何より司馬遼太郎がたのもしい人物であったのであろう。
残念ながら司馬の予言通り、彼は若くして亡くなり二十一世紀を見ることが出来なかった。彼は現在の日本及び世界を見てどう思うのであろうか。
自分に厳しく、相手には優しいという自己、言うは易く行うは難しである。少なくとも私は自信を持ってそういった自己を有しているとは言えない。努力しているつもりではあっても。しかし、この作品を読むたびにそうでなければならないと思い起こし、自分の行いを思い返している。