中野孝次:生きて今あるということ①

生きて今あるということ―私の死生観/海竜社

中野孝次のエッセイ集。

筆者と頑健と思われていた同年代の井上光晴や彼等より年下の中上健次、また、義母の死を目にした後の、筆者にとっての生きるということ及び死生観を中心としたエッセイを集めたもの。

若きにもよらず、強きにもよらず、思ひ懸けぬは死期なり。今日まで遁れ来にけるは、ありがたき不思議なり (徒然草)。

中野は上記の一文を引用し、誰にでもいつ来るか分からないのが死ということを改めて考える。死期の音連れは常に不意打ちであり、その覚悟をしていない方が悪いのかもしれないとも。

筆者は死に方について考える。本書は20年以上前に発表されたものであるが、現在でも通じる話である。現代医療、特に所謂延命医療技術に関してだ。病者を人間ではなくただ病める肉体としてのみ扱うような病院の風景に筆者は疑問を呈する。その上で、人間としての尊厳を保ったまま自然に死ぬことを選んだ(これはあくまで筆者の想像。おそらくその通りなのだろうが)長谷川町子の姿勢を称賛している。

そこで考えた。筆者は安楽死、尊厳死に関してはどう思っているのだろうと。ある意味これらも病人を単に肉体として扱うこととなるのではないかと。複雑な問題でここで論議出来る話ではないけれど。

エッセイ集なので各エッセイの主題はどうしても異なる。個人的には筆者が「現実の」ヨーロッパに初めて行ったときの感想がおもしろかった。ヨーロッパも結局は地球上の一地域に過ぎないと。戦中からずっと西洋の文化に惹かれていた筆者にとっての「西洋」は我々(というのは筆者とその同世代の人たちであろう)の頭の中にしか無かったという。その感覚は良く分かる。私がスペインに何度も行ったのにサグラダ・ファミリアを訪問していないのは見ることによって自分の頭の中にあるイメージが崩れるのをある意味恐れているためだ。

本書で筆者は日本の現状を憂いている。筆者の懸念は20年後の現代にもあてはまる。人間の遺伝子はそう一朝一夕で変わるものではないと。その通りだろう。実際、縄文人と我々はDNAレベルでは殆ど変わりないのではないか。その様な意味で、現在繁栄した世の中ではあるが、日本は大変危うい所に立っていると筆者は言う。

長くなり、また、テーマが変わるので続きは明日書きます。

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