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科学技術の進歩の観点から現代人について筆者は語る。科学技術進歩は人間のある種の能力の犠牲、退化という意味で、を伴わずには実現しえなかったと。
この点についてはいつか紹介しようと思うが、日本で言えば武士の身体能力や当時のナンバ歩き等とも関連があると思う。
筆者は中世を思うときある種のロマンティシズムを感じている様に思う。中野は言う。
(中世においては)すくなくともども人間もが全的にただ人間であった。
と。
詳しくは述べないが、筆者の言う通り、これは「生と対峙する態度」と深く関わっているのであろう。
この考えは後ほど、筆者が語る現在の我々を作り上げているものと関連している。筆者は特に彼の読書経験が彼自身を形成したと信じているという。その上で、
人はよくオリジナリティなどということを口にするけれども、あれは疑わしい考えで、完全なる独創などというものが果してありうるのか。
と述べる。同感だ。我々の考えの大部分は我々の生まれ育った環境等によるものであろう。ニュートンの巨人の肩の上という言葉も同じ様な意味合いで取れるであろう。海外にいる時には特にこの意味が良く解る。如何に自分の考えが日本で育ったことに影響されているかということに。
他方、人の感受性というのは面白いものであると思う。筆者は自身に多大な影響を与えた本として、アランの「スタンダール」を上げているが、彼によれば同時代の彼の仲間で同書に心を打たれた人に出会ったことがないという。
人にとってどんな本が一冊の本になるかわからぬものだと思う
と筆者は言う。何故かは良く分からないが、私にとって安心感を与えてくれるというか励まされる一節だ。
最後に本書において非常に考えさせられたことについて。筆者の述べる「体験」と「経験」の差異だ。筆者が述べる定義が明快だ。
体験とは自分が見をもってした生の経験である一方、経験とはその生の体験からエキスだけをしぼりだして思想にまでなったものと筆者は言う。
これら定義を念頭に、筆者は現代の状況の中で経験化されたものを次世代(若者という言葉を使っているが)に伝えることの重要性を示すとともに、その難しさがこちらに如実に伝わってくる。
最後にホフマンスタールからの孫引きとなるが考えさせられた一文。
一個の人間の顔、それはひとつのヒエログラフだ。
私の理解としては人間の顔はそれまでの軌跡を写し出している、ということ。筆者は違う意味合いで同文を引用しているが(真のことば)。
しかし充実した内容のエッセイ集だ。少し読みにくいと感じるかもしれないが、中野孝次の文章をゆっくりと味わいながら読みたい一冊。ここで紹介した以外にも沢山の素晴らしい考えや意見が詰まった本である。