私とラジオ

ラジオ聴く? ブログネタ:ラジオ聴く? 参加中
前回の記事でたかのてるこさんの本を紹介したが、そのたかのさんを知るきっかけとなったのが先述した通り、たまむすびというTBSのラジオ番組。
丁度、ブログネタで関連項目があったのでラジオについて書いてみようと思う。
私は昔からラジオをよく聴く。高校生の頃は片道8KMの道中、ラジオを聴くことが多かった。CDプレーヤーを携帯することもあったが、持ってるCDの数も限られていたのでラジオ番組を聴くことを好んだ。当時はニッポン放送が中心で朝はおはよう中年探偵団、午後は鶴光の噂のゴールデンアワーや遅いときはプロ野球のナイター中継をよく聞いていたと記憶している。
今は日本にいないので生でラジオ番組は難しいが、機会があるたびに録音されたものを聴いている。たまむすびはその中で現在のお気に入りだ。
私の中でラジオの重要度というのは年々増している。スマホ、メールとSNSがこれだけ普及している現在、言葉だけでものを伝えることが以前と比べ格段に減っている感じがする。私が子供の時、例えば綺麗な花を見た場合それを母親に伝えるには言葉で説明する他に方法がなかった。カメラなんて持ち歩いていないし、絵が下手なので花を描いてその美しさを表現することは私には不可能だったからだ。
しかし、現在、何かある度に直ぐ写真にとってメールで送ったりSNSに掲載したりすることを多くの人が行っており、自分の言葉で何かを表現する機会、また、言葉から何かを理解しようとする機会が減っているのではないかと感じる。
小林秀雄は以前「言葉は眼の邪魔になるものです。」と言った。最近日本に帰ってふとテレビ番組を見た際、あまりのテロップの多さに辟易した。それは視聴者に考えさせようとしない製作者側の意図か視聴者が考えなくなったのかは分からないが、とにかく以前と色々変わっているのは確かだろう。
言葉は眼の邪魔になるというのはある意味正しいのであろう。うろ覚えだが小林秀雄は確か菫の花を例として挙げていたと思う。一方、現在は、その言葉が本来持つ意味合いをあまりにも軽視している傾向があるように思われる。言霊という言葉がある日本において悲しい現実だと私は感じる。
話が少しずれたが、私にとってラジオは言葉のみから想像する機会を現在でも与えてくれる数少ない媒体だ。小説もそうかもしれないが決定的に違うのはラジオには時間という制限があること。音楽が時間と密接に関わる芸術であるならラジオは言葉と時間を基とした表現手段ではないか。
現在住んでいるところでは、現地のサッカーの試合をたまにラジオで聴く。サッカーは盛んだが強い国では無いので国際的に有名な選手は殆どいない。私が知っている選手というのは皆無である。そんな中、選手の名前やそのプレーがラジオを通じこちらに伝わる。選手の顔は勿論、肌の色、身長、髪型等身体的特徴が全く分からないなか、中継は続く。私はそういう状況の中で試合は勿論、会場の雰囲気を理解しようと試みる。そういう経験は現在では中々出来ないと思う。
また、言葉だけではない。何度も同じパーソナリティーの番組を聴いていると同じ言い回しであったとしても伝わる内容が変わったりする。雰囲気というか空気を読むという感じだろうか。たまむすびの例に戻ると赤江珠緒さんの声をこれだけ聞くと、今日は良いことがあったのかなぁとか今日の放送楽しんでるなぁとか感じることがある。その予想が正しいのかどうかは別として。
繰り返す様だがこういうことは現在ラジオを通じて以外中々出来ないことだと思うし、私はそれを楽しんでいる。だから今でもラジオを聴くし、これからもそうするだろうと思う。

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