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有森裕子:やめたくなったら、こう考える③

めたくなったら、こう考える (PHP新書)/PHP研究所


有森選手の本に関する感想三回目です(一回目二回目)。今回は勝負に関して。

競技者は勝ち負けに拘るべきであり、そうでなければ競技者にはなれないと有森選手は述べる。結果、競技者ランナーと一般ランナーのモチベーションは異なるべきであると考えている。楽しくとか参加することに意義があると考える人が良いとか悪いとかではなく、勝つために参加する人はそういったことを考える前に優先しなければならないことがあるということであろう。

また、争うこと自体は悪くなく、争いの結果を子供達にどう表現し、理解させ、また学ばせるかが重要であると言う。そうだろう。社会の一員である以上、優劣を決めなければならない状況とは幾らでもあり、そこから何を得るか、学べるかを若いうちに教えることは非常に重要だと思う。

この勝負に対する考えが有森選手が好き嫌いをマラソンを続ける基準にしなかったことに繋がっていると思う。有森選手がマラソンを楽しいと感じる理由は競争として走る時、勝負が明確になることだと述べているからだ。

また、競技者である以上、「走ることが好き」と公に言うためには、勝っていなければ駄目だと明言している。負けていながら同じことを言うことに意味は無いと。トップランナーとして戦ってきた有森選手の勝負に対する厳しさをこれらの考えに感じる。有森選手はアスリートの世界では負けた人に最高の評価がつくことはなく、明確な評価軸は、勝つか負けるかであると述べている。

私を含め大多数の人はアスリートの世界で有森選手の様な立場に遭遇した経験は無いと思う。ただ、各々の生業の場、つまりプロとしてお金を稼いでいる場では多かれ少なかれ同じ心境で挑むべきではないかと思う。そう考えるとそこに好き嫌いという感情は確かに関係ないのであろう。勿論成功していて且つ好き若しくは楽しいと感じることが出来るのであればそれに勝る幸せは中々見つけるのが難しいとは思うが。

次回が最終回です。

有森裕子:やめたくなったら、こう考える②

やめたくなったら、こう考える (PHP新書)/PHP研究所

前回に引き続き有森裕子選手の本の感想。

今回は本書において有森選手が語る変えないことの重要性について。

何かにおいて時代が変っても新しい方法が誕生しても、その分野においてやらなければならないこと及び持たなければならない感覚の存在、つまり根本についてだ。大事な根本の理由を理解出来ない間は成功に繋がらないということである。

他方、根本さえしっかりしていれば、思い悩んだ時にもそこに立ち戻りやり直すことが出来るので根本が重要だというのが著者の言わんとするところだと思う。有森選手は自身には根本備わっているため、何かあったら戻るものを持っていると断言する。その自信故に何かを途中で投げ出すことが無かったのだろう。

私の場合、これまでの経験で幾つかの分野で根本をしっかりさせることが出来たと感じているため、有森選手の言わんとすることが理解出来ると思う。

例えば文章を書くことである。博士論文を含めた論文やレポートを中心に書くことに長年従事してきたため、専門分野でなくても書くことを特に苦痛に感じない。学術論文は英語で書いてきたので日本語の語彙に不安はあるものの、テーマを渡されれば質はともかく何かしら書くことが出来る様になった。

それは説明しにくいことであるが、考えを纏めそれを相手に伝える方法論が備わっているからだと思う。それが書くことに関して私の根本となっており、知識が乏しい分野においてもそこに立ち戻れば何かしら書くべきと考えることが頭に浮かび上がっている。

また、空手においても同様だ。少なくとも空手においては稽古を積むということは単に筋力等の身体能力の向上を超えた経験が必要となってくる。例えば初心者の内に学ぶ猫足立ちが初めて出来たと言われた時、両足に感じた感覚は今まで感じたことのないものであった。それはすなわち今までそういう姿勢をしたことが無く、言葉で説明出来ない状況であったということだ。

そういった経験を少しずつ積んで自分の体でどういう動作が今の段階で出来るのかをある程度理解出来る様になった。そのため、新しい動作を学ぶ際、例えその場で出来なくてもどの様にすれば良いか、学べるかの道筋をある程度であるが想像することが可能となった。それはその段階で出来ないと理解することも含めてである。

その確認の方法は例えば単純に腕や足を少しずつ上げるだけの場合もあれば、形を通じて体の感覚を精査しながらということもある。この辺は身体的な実体験を共有出来ない場合は説明が難しいが。

著者はまた、ルーティンを保つこと、すなわち何かを変えないということに対して否定的な印象が強まっている中で著者は変えないことの利点について語る。ルーティンを保つことは縁起担ぎではなく勝つための戦略であり、体調維持及び結果が伴うという明確な根拠があれば、同じことに取り組み続けるべきであると。

この点は非常に重要だと思う。ルーティンを守ることで結果が出るのであれば、それは確かに縁起担ぎではないのでしっかりと区別をする必要があるだろう。

有森裕子:やめたくなったら、こう考える①

やめたくなったら、こう考える (PHP新書)/PHP研究所


著者はオリンピックで二度メダルを獲得したマラソン選手。スポーツ及び武道に日々携わる身としては色々考えさせられることの多かった一冊。 数回に分けて感想を述べたい。

 マラソン選手としては誰もが一流と考えるであろう同選手だが好きで走っていたわけではないと断言する。誤解を生みやすい言い方であるが、要は好き嫌いが走ること(を続けること)の判断材料であったことはないということだ。

有森選手にとって好き嫌いはマラソンに限らず物事を続けることや辞めることの理由にはならない。また、生きていくことを大前提にするなら、その仕事が“好きか嫌いか”ではなく、“食べていけるかどうか”が全てだと語る。

彼女は究めていない物事に関して好き嫌いの判断は出来ないと述べると共に、形が見えていない状態のものに対して好き嫌いを簡単に判断することが本当に可能かと問う。やりはじめたことをやり終えて、しっかりした形が見えてもなお疑問を感じたときにはじめて「嫌だからやめる」が理由になるのだと著者は強調する。

聴く人にとっては非常に心苦しい意見ではないかと思う。走る事を仕事とし、また、その仕事を非常に長い間続けていた有森選手だからこそ、その発言に説得力がある。何かを投げ出すことが難しくない現在、私も含め一体どれだけの人が有森選手の言う「形が見える」状況まで物事を続けているのかと思った。

また、有森選手は近年の日本における子供達に順位をつけない傾向(特に客観的に見てはっきりついているはずの順位を公表しない流れについて)に警鐘を鳴らし、明確になるはずのものすら順位をつけなくなると、自分には何が出来るか分からないどころか、何が好きかも分からない様なあやふやな人間を作ることになるのではと問う。

確かに現在の考え方は子供が自分で考える機会を減らしている気はする。また、大人になってから競争なんて幾らでもあるのに、子供の時にそういう事を覚えさせないで良いのかなとは思う。失敗を含めて試行錯誤の機会を子供から取り上げてしまうのは絶対に子供のためにならないのではないか。

 最後に有森選手の練習に関する考えが非常に参考になった。

「今日は良かった」と(自分の感覚のみで)と終われる範囲の練習で満足せず、気持ちよくない練習、死ぬかと思うほどの練習、あれこれ考えずにガムシャラにやる練習、それが大事になる。

気持ち良いレベルの練習・稽古は確かに甘いと思う。私が未だに水泳でコーチを付ける理由のひとつがそこである。キツイと思うレベルのメニューをどんどん出してくるから。スポーツ・武道で向上しようとするのであれば、今出来ることと自分が思っている以上のことをしなければ不可能ではないか。

今後書こうと思う有森選手のルーティンへの考え方等を見ても、彼女は非常に色々なことを考えているなと感じた。だからこそマラソンという過酷な世界で一流と言って過言ではないレベルまで上り詰めたのだろうし、努力家であることは勿論のこと、私の考える天才の定義にピッタリ当てはまる方だと感じた。

 それらについては次回以降書きたいと思います。