年末のレースに向けたトレーニングを始めたこともあり、何冊かランニング関連の書籍を紹介していこうと思う。 まずは有森選手や高橋選手を指導したことで有名な小出義雄監督の著作。マラソン完走に向け主に初心者及び中級者を対象としたと思われる一冊。 最初の章は、マラソンというか、走ること(もちろん中距離以上を念頭に置きつつ)の準備について。具体的には走れる体をつくること、特に脚を作ることだ。そこには体重を減らすことやスピードが落ちる要因についての説明がなされている。 本書が非常に親切だと思う点は、私を含む一般人の多くが仕事の都合上練習時間の確保、特にマラソンの場合、が難しいことを念頭に置いた上での練習メニューを提案していることだ。時間の確保が難しく、走ることを辞める人はおそらく多いであろう。本書により、辞めることを踏みとどまった人はそれなりにいるのではと思った。 また、特に初心者に向けてであろうが、三日坊主についてもかなり優しい解釈が提示されている。見かけによらず優しい監督だと思った人もいるのではないかな。しかしその上で練習は裏切らないと断言する。五輪メダリストを二人育てている監督の言う言葉だけに説得力があり励まされる。 技術的なことを提示する一方、そこまでこだわる必要がないと思うことに関してはハッキリと伝えている。指導者としての自信が成せることであろう。 走ることが好きな人もそうではなくてもスポーツが好きな人にお勧めしたいです。多くの人が何かしらのヒントを得ることが出来る本だと思います。
本書で特に強調されていることのひとつがトレーニングに負荷をかけることだ。具体的な方法は本書を読むことで分かるのでここでは触れないが、このことを念頭に置くだけでもマラソン練習への取り組み方が変わるのではないか。
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中野孝次:生きて今あるということ②
昨日の記事はこちら。
科学技術の進歩の観点から現代人について筆者は語る。科学技術進歩は人間のある種の能力の犠牲、退化という意味で、を伴わずには実現しえなかったと。
この点についてはいつか紹介しようと思うが、日本で言えば武士の身体能力や当時のナンバ歩き等とも関連があると思う。
筆者は中世を思うときある種のロマンティシズムを感じている様に思う。中野は言う。
(中世においては)すくなくともども人間もが全的にただ人間であった。
と。
詳しくは述べないが、筆者の言う通り、これは「生と対峙する態度」と深く関わっているのであろう。
この考えは後ほど、筆者が語る現在の我々を作り上げているものと関連している。筆者は特に彼の読書経験が彼自身を形成したと信じているという。その上で、
人はよくオリジナリティなどということを口にするけれども、あれは疑わしい考えで、完全なる独創などというものが果してありうるのか。
と述べる。同感だ。我々の考えの大部分は我々の生まれ育った環境等によるものであろう。ニュートンの巨人の肩の上という言葉も同じ様な意味合いで取れるであろう。海外にいる時には特にこの意味が良く解る。如何に自分の考えが日本で育ったことに影響されているかということに。
他方、人の感受性というのは面白いものであると思う。筆者は自身に多大な影響を与えた本として、アランの「スタンダール」を上げているが、彼によれば同時代の彼の仲間で同書に心を打たれた人に出会ったことがないという。
人にとってどんな本が一冊の本になるかわからぬものだと思う
と筆者は言う。何故かは良く分からないが、私にとって安心感を与えてくれるというか励まされる一節だ。
最後に本書において非常に考えさせられたことについて。筆者の述べる「体験」と「経験」の差異だ。筆者が述べる定義が明快だ。
体験とは自分が見をもってした生の経験である一方、経験とはその生の体験からエキスだけをしぼりだして思想にまでなったものと筆者は言う。
これら定義を念頭に、筆者は現代の状況の中で経験化されたものを次世代(若者という言葉を使っているが)に伝えることの重要性を示すとともに、その難しさがこちらに如実に伝わってくる。
最後にホフマンスタールからの孫引きとなるが考えさせられた一文。
一個の人間の顔、それはひとつのヒエログラフだ。
私の理解としては人間の顔はそれまでの軌跡を写し出している、ということ。筆者は違う意味合いで同文を引用しているが(真のことば)。
しかし充実した内容のエッセイ集だ。少し読みにくいと感じるかもしれないが、中野孝次の文章をゆっくりと味わいながら読みたい一冊。ここで紹介した以外にも沢山の素晴らしい考えや意見が詰まった本である。
中野孝次:生きて今あるということ①
中野孝次のエッセイ集。 筆者と頑健と思われていた同年代の井上光晴や彼等より年下の中上健次、また、義母の死を目にした後の、筆者にとっての生きるということ及び死生観を中心としたエッセイを集めたもの。 若きにもよらず、強きにもよらず、思ひ懸けぬは死期なり。今日まで遁れ来にけるは、ありがたき不思議なり (徒然草)。 中野は上記の一文を引用し、誰にでもいつ来るか分からないのが死ということを改めて考える。死期の音連れは常に不意打ちであり、その覚悟をしていない方が悪いのかもしれないとも。 筆者は死に方について考える。本書は20年以上前に発表されたものであるが、現在でも通じる話である。現代医療、特に所謂延命医療技術に関してだ。病者を人間ではなくただ病める肉体としてのみ扱うような病院の風景に筆者は疑問を呈する。その上で、人間としての尊厳を保ったまま自然に死ぬことを選んだ(これはあくまで筆者の想像。おそらくその通りなのだろうが)長谷川町子の姿勢を称賛している。 そこで考えた。筆者は安楽死、尊厳死に関してはどう思っているのだろうと。ある意味これらも病人を単に肉体として扱うこととなるのではないかと。複雑な問題でここで論議出来る話ではないけれど。 エッセイ集なので各エッセイの主題はどうしても異なる。個人的には筆者が「現実の」ヨーロッパに初めて行ったときの感想がおもしろかった。ヨーロッパも結局は地球上の一地域に過ぎないと。戦中からずっと西洋の文化に惹かれていた筆者にとっての「西洋」は我々(というのは筆者とその同世代の人たちであろう)の頭の中にしか無かったという。その感覚は良く分かる。私がスペインに何度も行ったのにサグラダ・ファミリアを訪問していないのは見ることによって自分の頭の中にあるイメージが崩れるのをある意味恐れているためだ。 本書で筆者は日本の現状を憂いている。筆者の懸念は20年後の現代にもあてはまる。人間の遺伝子はそう一朝一夕で変わるものではないと。その通りだろう。実際、縄文人と我々はDNAレベルでは殆ど変わりないのではないか。その様な意味で、現在繁栄した世の中ではあるが、日本は大変危うい所に立っていると筆者は言う。 長くなり、また、テーマが変わるので続きは明日書きます。