習い事

習い事したい?してる? ブログネタ:習い事したい?してる? 参加中
習い事かぁ。
小学二年生の時に剣道を始めたのが初めての習い事。小学校卒業まで続けた。
その後は部活があったので狭義の意味での習い事はせず。
剣道は14年後の大学院時代にアメリカで再会。でも先生が合わず直ぐに辞めてしまった。
36歳の今は空手(伝統糸東流)と競泳。これはずっと続けていきたいと思う。たまにヨガに行ったりするけどあくまでも中心はこの二つ。
今後習いたいものあるかなぁ。ピアノと合気道かな。

私とラジオ

ラジオ聴く? ブログネタ:ラジオ聴く? 参加中
前回の記事でたかのてるこさんの本を紹介したが、そのたかのさんを知るきっかけとなったのが先述した通り、たまむすびというTBSのラジオ番組。
丁度、ブログネタで関連項目があったのでラジオについて書いてみようと思う。
私は昔からラジオをよく聴く。高校生の頃は片道8KMの道中、ラジオを聴くことが多かった。CDプレーヤーを携帯することもあったが、持ってるCDの数も限られていたのでラジオ番組を聴くことを好んだ。当時はニッポン放送が中心で朝はおはよう中年探偵団、午後は鶴光の噂のゴールデンアワーや遅いときはプロ野球のナイター中継をよく聞いていたと記憶している。
今は日本にいないので生でラジオ番組は難しいが、機会があるたびに録音されたものを聴いている。たまむすびはその中で現在のお気に入りだ。
私の中でラジオの重要度というのは年々増している。スマホ、メールとSNSがこれだけ普及している現在、言葉だけでものを伝えることが以前と比べ格段に減っている感じがする。私が子供の時、例えば綺麗な花を見た場合それを母親に伝えるには言葉で説明する他に方法がなかった。カメラなんて持ち歩いていないし、絵が下手なので花を描いてその美しさを表現することは私には不可能だったからだ。
しかし、現在、何かある度に直ぐ写真にとってメールで送ったりSNSに掲載したりすることを多くの人が行っており、自分の言葉で何かを表現する機会、また、言葉から何かを理解しようとする機会が減っているのではないかと感じる。
小林秀雄は以前「言葉は眼の邪魔になるものです。」と言った。最近日本に帰ってふとテレビ番組を見た際、あまりのテロップの多さに辟易した。それは視聴者に考えさせようとしない製作者側の意図か視聴者が考えなくなったのかは分からないが、とにかく以前と色々変わっているのは確かだろう。
言葉は眼の邪魔になるというのはある意味正しいのであろう。うろ覚えだが小林秀雄は確か菫の花を例として挙げていたと思う。一方、現在は、その言葉が本来持つ意味合いをあまりにも軽視している傾向があるように思われる。言霊という言葉がある日本において悲しい現実だと私は感じる。
話が少しずれたが、私にとってラジオは言葉のみから想像する機会を現在でも与えてくれる数少ない媒体だ。小説もそうかもしれないが決定的に違うのはラジオには時間という制限があること。音楽が時間と密接に関わる芸術であるならラジオは言葉と時間を基とした表現手段ではないか。
現在住んでいるところでは、現地のサッカーの試合をたまにラジオで聴く。サッカーは盛んだが強い国では無いので国際的に有名な選手は殆どいない。私が知っている選手というのは皆無である。そんな中、選手の名前やそのプレーがラジオを通じこちらに伝わる。選手の顔は勿論、肌の色、身長、髪型等身体的特徴が全く分からないなか、中継は続く。私はそういう状況の中で試合は勿論、会場の雰囲気を理解しようと試みる。そういう経験は現在では中々出来ないと思う。
また、言葉だけではない。何度も同じパーソナリティーの番組を聴いていると同じ言い回しであったとしても伝わる内容が変わったりする。雰囲気というか空気を読むという感じだろうか。たまむすびの例に戻ると赤江珠緒さんの声をこれだけ聞くと、今日は良いことがあったのかなぁとか今日の放送楽しんでるなぁとか感じることがある。その予想が正しいのかどうかは別として。
繰り返す様だがこういうことは現在ラジオを通じて以外中々出来ないことだと思うし、私はそれを楽しんでいる。だから今でもラジオを聴くし、これからもそうするだろうと思う。

たかのてるこ:ダライ・ラマに恋して

ダライ・ラマに恋して (幻冬舎文庫)/幻冬舎

私が著者のことを知ったのは今年に入ってからだ。たまむすびというラジオ番組に出演して日本の聖地について語っていた。やたら明るい人だなぁというのが印象だった。彼女が紹介する数か所の聖地はとても魅力的で訪問したいと思った一方、彼女自身に興味を持ちその著作を読んでみようと思った。

実は有名人と知ったのはその後。私がテレビをほとんど見ないのも彼女のことを知らなかった一因だろう。

本書は私が読んだたかのてるこの最初の一冊。
先日紹介した村上春樹のウィスキーに関する本同様、彼女の旅にも明確な目的があった。ダライ・ラマに会いたいという目的が。その目的が達成出来るかの見込みの無いまま、たかのてるこは旅に出た。
村上春樹と同様、たかのてるこにも旅の明確な目的がある。一方、この本は村上のものとは全く種類の違う本だと感じた。村上春樹の本からはスコットランドとアイルランド及びそれらの地のウィスキーの魅力が滲み出ているのだが、たかのてるこの本書からは感じられるのは著者自身の魅力だ。たかのに文章力が無いとか著者に魅力を伝える意思が無いわけではないだろう。ただ、彼女の個性があまりにも強く、本書で紹介される人々が幾ら興味深くとも私の関心はどうしてもたかのてるこの一挙手一投足に向かってしまった。
そういう意味ではたかのてるこは旅行記を書くのは適していないのかもしれない。悪い意味ではないけれど。本書はとても良く書かれていると思うし、何より素晴らしい読後感を与えてくれた。
さて内容について少し。ここでは本書で触れられている仏教やチベット問題についてはあえて触れない。色々な媒体で何度も語られていることであり、また、私の仏教に関する知識はかなり限られているので。

先述した通り、この本で私が如実に感じたのはたかのてるこという人物の人柄である。彼女はテレビ番組の制作に関わっていたため、一般人よりダライ・ラマに会える可能性はあったと思われるがそれでも会えるという保証がどこにもないまま、ラダックやダラムサラに旅立つというのは彼女の積極性及び行動力あってのものだろう。そしてたかのは実際にダライ・ラマに謁見している。

本書では多くの現代人が信じることの難しいことが多々語られている。例えば、シャーマンや輪廻転生について。前世を覚えている少女やダライ・ラマの存在自体がその最たる例であろう。

私はそういうものを比較的信じる方だと思う。言い方を変えれば目に見えないものを信じることにそこまでの抵抗が無い。それは幾つかの国の先住民と暮らした経験、また、武道や断食を通して目に見えるもの以外の存在を感じることが何度もあったから。特に断食が進んで精神が研ぎ澄まされる時、空手の形を演じる時に現代科学では証明されにくい現象を経験したことが何度かある。いつか話そうと思うが、昔の人々はそういうものを感じる能力を秘めていたのではないかなと思うことがある。記紀を始めとした文献や能とか日本の伝統芸能の存在に鑑みてもそうではないかなと感じる。浅学なのでこの考えを上手く肯定する手段を私は持っていないが。

さて、本書では著者が出会った人々が仏教的視点から様々なアドバイスというか意見を述べている。私が特に関心を持ったのは

・この世に永久に変わらないものはない。ということを本当に理解する。

・執着しないことは相手に無関心になることではない。

である。

最初のものは私も含め多くの人々が理解しているつもりでそうではないことではないだろうか。

二つ目は一見矛盾してそうだがそうではないのであろう。ただ、私は未熟なためか、この言葉の本質をまだ理解出来ない。今後、理解出来る時が訪れるのか不安にもなる。

ただ、執着心について親や愛する者を失う時の例(両親の死が怖いのではなく、そこから生じる自分が不安定になることへの恐れ)には色々考えさせられた。

ただ楽しいだけではなく、上記の例も含め本書からは学ぶことが多々あった。一方、先述した通り、魅力的な人々が沢山登場するにも拘わらず、私が一番興味を惹かれたのは著者自身であった。旅はその時々の自分を映す鏡であると著者は言う。だからこそ本書は彼女の魅力を反映しているのであろう。

最後にこの本、写真を見るだけでもその価値はあると思う。皆、素敵な笑顔だ。眼が輝いている。繰り返すが本書は素晴らしい読後感を与えてくれた。久し振りにこんな気持ちになった。是非お勧めしたい一冊である。