スカッシュ

生で見てみたいスポーツの試合 ブログネタ:生で見てみたいスポーツの試合 参加中
スカッシュなんか一度生で見てみたいと思う。

身体能力のみならずゲーム性の高いスポーツが私の好み。

スカッシュはその気になれば駅の構内とか色々な所でゲームが出来るし、もっと注目されてもいいスポーツだと思うけどなぁ。

アメリカのジムにはスカッシュコートがある所が多く、楽しそうだなぁとは思っていました。ラケットを買うお金が無くてやったことはないけれど。

ゲーム性という意味ではアメフトはお薦め。私の大学院の大学チームは凄く人気があって毎試合8万人でスタジアムが埋まってました。私もシーズンチケットを買って観戦してました。

角部屋

部屋は角部屋がいい? ブログネタ:部屋は角部屋がいい? 参加中
アパートとかマンションでの話ですよね?

家族がいるとか、家にどれ位居るかによるかな?

学生時代はそもそも家にいることが時間が短かったのであまり気にしたことはないけど、他の条件が同じであれば窓が多い方が良いかも。

後は建物がエレベーター付きかどうかというのも角部屋がいいかどうかを左右すると思う。角部屋の場合、エレベーターから遠いことが多いので騒音という意味でも有利かな。

ただ、角部屋の場合購入しなければならないカーテンの枚数が増えて経済的には苦しいかも。大きな建物だとエレベーターからの距離が意外に辛く感じるかもしれないし。

まぁ、色々述べたけどどちらかと言えば角部屋を好むかなぁ。建物の中でも一軒家に少し近いし窓が多いのってそれだけで魅力です。

中野孝次:生きて今あるということ①

生きて今あるということ―私の死生観/海竜社

中野孝次のエッセイ集。

筆者と頑健と思われていた同年代の井上光晴や彼等より年下の中上健次、また、義母の死を目にした後の、筆者にとっての生きるということ及び死生観を中心としたエッセイを集めたもの。

若きにもよらず、強きにもよらず、思ひ懸けぬは死期なり。今日まで遁れ来にけるは、ありがたき不思議なり (徒然草)。

中野は上記の一文を引用し、誰にでもいつ来るか分からないのが死ということを改めて考える。死期の音連れは常に不意打ちであり、その覚悟をしていない方が悪いのかもしれないとも。

筆者は死に方について考える。本書は20年以上前に発表されたものであるが、現在でも通じる話である。現代医療、特に所謂延命医療技術に関してだ。病者を人間ではなくただ病める肉体としてのみ扱うような病院の風景に筆者は疑問を呈する。その上で、人間としての尊厳を保ったまま自然に死ぬことを選んだ(これはあくまで筆者の想像。おそらくその通りなのだろうが)長谷川町子の姿勢を称賛している。

そこで考えた。筆者は安楽死、尊厳死に関してはどう思っているのだろうと。ある意味これらも病人を単に肉体として扱うこととなるのではないかと。複雑な問題でここで論議出来る話ではないけれど。

エッセイ集なので各エッセイの主題はどうしても異なる。個人的には筆者が「現実の」ヨーロッパに初めて行ったときの感想がおもしろかった。ヨーロッパも結局は地球上の一地域に過ぎないと。戦中からずっと西洋の文化に惹かれていた筆者にとっての「西洋」は我々(というのは筆者とその同世代の人たちであろう)の頭の中にしか無かったという。その感覚は良く分かる。私がスペインに何度も行ったのにサグラダ・ファミリアを訪問していないのは見ることによって自分の頭の中にあるイメージが崩れるのをある意味恐れているためだ。

本書で筆者は日本の現状を憂いている。筆者の懸念は20年後の現代にもあてはまる。人間の遺伝子はそう一朝一夕で変わるものではないと。その通りだろう。実際、縄文人と我々はDNAレベルでは殆ど変わりないのではないか。その様な意味で、現在繁栄した世の中ではあるが、日本は大変危うい所に立っていると筆者は言う。

長くなり、また、テーマが変わるので続きは明日書きます。